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日本古代歴史裁判・

(付録4)「ホツマツタヱ発見物語」より一部抜粋して引用

ホツマツタヱ発見物語 (Amazon)
 

<時代遅れで、間違った認識と主張する理由についての考察>

 文書に書いてあることがそのまま正しいとは勿論言えませんが、歴史に於ける事実は文書によってのみ認知するしかないとしたら、ある事実を記載した文書があり、その文書が性質上一応信用すべきものであり(つまり、偽りではなく事実を書こうと意図しているものと認められ)、その記載自体がおかしなもので信じられないとか、別にそれと矛盾する文書がある、というのでもなければ、一応その事実があったと認めるしかないのではないでしょうか。裁判で言えば、それで立証責任が果たされ、その内容を争おうとするものは、その者の側で反証を挙げなければならない、ということです。他に方法がありうるでしょうか。私は、そういう風にしてしか、事は進まないと思います。
 してみれば、これを否定(どうしても存在したと見るのは不都合であると)しようとするならば、その証拠を挙げるべきであろうその立証責任は、否定論者にあることは明らかだと思います。否定論者は否定のための立証責任を果たす必要があると考えます。
 しかしながら、実情は「自分は存在しないと思う」とか「自分はこう解釈する」と言っているだけのようです。そういう議論がまかり通る、そればかりかそれらが定説になってしまうのはとても不思議です。
 これには恐ろしい偏見のなせる術があるのではないでしょうか。国語学者・考古学者は日本には古代文字がないという支配的学説に引っかかってしまい、現に目の前にあるヲシテ文献をまともに見ようとしないようです。しかし、これはおかしいのではないでしょうか。ヲシテ文献をよく調べてみて、インチキだとか後世にできたものだとか言うなら話は分かります。が、まるで見もしないで、これまでの学説に日本には文字がないとされているからないんだ、というのでは話になりません。それは学者の態度とは言えないのではないでしょうか。
 

自らを卑しめる癖

 ヲシテ文献が世にでる道をふさいでいるものに、もうひとつ重要なものがあると思っています。これは相当根の深いもので日本人の民族的欠点とも言うべきものであるかもしれません。それは自らを卑しめると言う癖です。外国のものは何でもよくて、自国のものは何でも悪く劣っていると言うという考え方です。
 日本は立派な文字を持っていたのに、他国の文字に幻惑されて漢字を国字にしてしまったとも考えられます。文化はもともと日本にはなかった、西の方から入ってきた文化をうまく料理するのが日本民族の特長だ、そう教わってきたように私は思います。しかし、この考えは間違っているのではないでしょうか。もとになるチャンとしたものが日本にあり、だからこそ、どんなものが入ってきても、これを料理できるのであって、元がなければ料理するもしないもないということでしょう。
 その元があるということに、これまでの日本人は気が付かなかったのです。ヲシテ文献を読めばそのことがよく分かると思います。