人のケツ見て25

 

 

その27「現実を見る」

 

1989年のリリースを整理しておこう。2月にスターリンのアルバム「JOY」シングル「包丁とマンジュウ」が出ている。

「デビュー」ツアーをやり、そのビデオ「P」は7月に出た。合宿中の山中湖で編集の上がった映像を見た記憶がある。

ミックスして編集すると何とかなるもんだなあと思った。

合宿して、レコーディングして9月に先行シングル「勉強が出来ない」が出て、アルバム「スターリン」は10月。

メトロファルスの「グッドモーニング ミスタータリスマン」は9月。

スターリンの合宿後、山中湖ハシゴして録った石島由美子の「BABUHAJAH」もトランジスタレコードから

9月か10月には出たはず。三原的リリースラッシュだ。忙しい年だった。

石島のアルバムのレコーディングはプロデューサーの岡井大二氏のおかげで笑い疲れ仕事になり、

アルバムの中の「WAR3」はパパイヤパラノイアの曲の再録ながら破壊力抜群で、幸いCDをまだ持っているので

時々聞く。世間的にはそう出回っていないだろう。

 

「スターリン」が出来て以降、スターリンはライブ活動が増えている。ま、「デビュー」ツアー以降、

ホールコンサートは数える程しかない。イヴェントに出たぐらいだ。

友部正人さんとスターリンで本多劇場でライブをやったりした。

メモ帳には9月7日「スターリン、大江ギグ」というのが有るが、あまり記憶に無い。

その頃僕は「スターリン」以後で、友部セッションも仕切りまくり、友部さんに「自己主張のかたまりだね。」

と言われたのを覚えている。

シングルの「勉強が出来ない」のプロモーションビデオの撮影を二子多摩川のモデルハウスでやった。

ハラワタ、血しぶきは無かったが、ミチロウさんは生きアワビを買ってきてなめていた。

 

「インクスティック・芝浦ファクトリー」は小ホール形式のライブハウスとしてはハシリの小屋で、この年が最後だった。

この頃は僕は年がら年中出ていた。この頃ここで店員をやっていて知り合ったのが、現クラブQUEの店長二井君と

現DJ、プデューサー、仕掛け人の石川ケンイチ。二井君は家も近所だった。

インクスティックに出て、出番が終わり、カウンターに行くと何故か黙ってニッコリ笑ってビールを注いでくれる

スヌーピーそっくりの店員が居た。それが石川君だった。今でも僕の顔を見ると「あ!スターリンだ!」と言いやがる。

 

メトロファルスを脱退したのはこの年の10月だ。

そもそもヨロシタミュージックにメトロを持ち込んだのは僕であり、ポリドールとの契約も決まった矢先、

ご迷惑なお話だ。申し訳ない。

「スタンズ」を聞いてやろうと思った訳だが、バンドは次第にアコースティックな方向に行き始め、

ライブ毎の企画でもアメリカのドノバンなどのカヴァーが増えてきた。どうも興味が持てなかった。

そういった方向性はずっと後のメトロの民族音楽ロックに結びついていくのだろう。

初期のメトロと後のメトロの間の長い過渡期にこの頃はあったと思う。

ライブで企画が多く、じっくり演奏に取り組むのが難しくもあった。メンバー間の演奏上のタイムの問題も常にあった。

当時の僕は演奏が始まったら「行くとこまでいってしまい」たかったが、他のメンバーはその直前で、

「ふっ」と身をかわしてしまうような気がしていた。ライオンメリーさんはそういう演奏が「怖い」と言った。

ヨタロウなら「粋じゃ無い。」と言うだろう。僕以外は江戸っ子であり、僕にはその辺の感覚は最後まで分からなかった。

良い悪いでは無い、ただ僕は限界に来ていた。

だし、なんと言ってもこの時点で僕はスターリンでは我意を通していた。

とは言え、ライブは随分やったし、黄色いメトロ号でツアーも一杯行ったし、夏の伊豆高原も良い思い出だ。

しかしまあ、悪い時期でメトロとマネージャーの小榎氏などには迷惑をかけたと思う。

最後のライブは浅草の常盤座だった。

 

スターリンで年末にシングル「90センチメンタルおせち」が出ているが、録音は確か「スターリン」

録音時か少し後のはずだが、僕は息切れしていた。擦り切れ状態。なんとか作って録音した。

手元に無いのだが、結果的に明るい曲調になり、お笑い一歩手前状態。キーボードがしこたま入っている。

そうしないとバックが聞けるものにならなかったのだ。

ギターの山盛には自分の「リップス」と言うバンドがあり、当初からあまり「ああしようこうしよう」と言う事は無かった。

ミチロウさんは楽曲の方向性に関してはあまり口を出さない。ニッシーもおとなしい。

いつの間にか僕がこの頃主導権らしき物を持っていたのはそうせざるを得なかった事情もある。

そうこうしているうち山盛としては、2枚目で見知らぬ音楽までやる事になった。彼にはあまり興味が無かったろう。

 

一応メジャーでレコードを出す場合の最も深刻な問題が持ち上がった。「スターリン」は売れなかったのだ。

僕は好きなアルバムだ。当たり前だ。僕が作りたい物を作ったのだ。ミチロウさんも喜んだ。僕は歌も好きだ。

作っている当時そんな事、考えもしなかった。僕のそれまでの経緯を見てもあまり売上がどうのというタイプの

キャリアは無い。実際、僕自身がここで初めてレコードビジネスに直面したといって良い。

制作中、自信満々の僕を見てディレクターの土田氏などは僕がマーケティングまで当然考えていると思ったかも知れないが、

残念でした、僕はその手の事に関しては想像を絶するアホでした。

 

夢の中でCDを作っていたら、目が醒めた。そんな感じで、僕は戸惑った。「どうすれば良いのか?」

プレッシャーは僕ではなく、ミチロウさんに行ったと思われる。

アルファと契約しているのはミチロウさんだけなので、アホの監督責任もミチロウさんにあるという事なのか。

が、ミチロウさんも「スターリン」の方向にはノッていたのである。表現者として可能性も見ていたはずだ。

「スターリン、ブタの生首」という図式を当時のミチロウさんは脱却したいと考えていたと思う。

僕も物を投げたりはいやだった。

勝手な推測かも知れないが、ミチロウさんとしても本来の詩人的な要素を生かせる音楽手法は探していた筈だ。

即興演奏と詩という線は可能性があった。

が、レコード会社としては、多小は過激でも良いから売れて欲しいと言うのはあっただろう。ギクシャクし始める。

おとなしい山盛とニッシーにもレコード会社の風当たりは強かった。

 

今現在でなら僕は「スターリン」はインディーズで出す事をまず考えるだろう。(本来ローコストで出来るコンセプトだし。)

しかしミチロウさん的にはそれではBQという個人事務所でビデオスターリンをやったにもかかわらずアルファという

メジャーと手を組んだ意味も無い。メディア戦略も好きだったミチロウさんとしては。

考えて見ると複雑な状況だった。実際、誰もその後について明確なビジョンを持っていなかったと思う。

「まんまイメージ通りやる。」はあり得なかった。僕を含めてこの編成ではありえない。変化のために僕は呼ばれた。

それぞれに意見はあったが具体性は誰も提示できなかった。

僕はアホ故に突っ走り、とりあえず「JOY」と「スターリン」は出来た。

僕にあまり「どうすんの!?」というプレッシャーが来なかったのはとりあえず僕は行動していたからかも知れない。

 

前述の通り「スターリン」に僕は心血を注いだ。

僕の気力は擦り切れていた。「90センチメンタルおせち」の難航はそこに起因しており、僕は痛感した。

「アイデアを出してくれる人間が必要だ。」

ワンマンの下で言われた通りやらされるのもうんざりだが、アイデアの出てこない中で、必死にやりくりするのも

大変だ。実際この時期僕がワンマンになっていたかもしれない。ワンマンになって行くとまわりは引き始め殻に入る。

そしてさらにワンマンに。

そこで嬉々としてワンマンをやっていけるかどうかは性格によっても変わってくる。

そういう人も居る。僕はそうではない。

僕がワンマンになったところで僕の趣味以上の物にはならないし、「売れないんだよね。」と言われてしまった時、

実際システムの中で僕は無力だった。特にギターに関する事は僕には分からない、ギターは打ち込みも厳密には不可能だ。

だからギターの専門知識の必要ないやり方で作ったのだ。

 

今にして考えるとそれでもミチロウさんと「スターリン」の線を続ければ長い目でみると面白かったかもしれない。

即興演奏自体はともかく、何でもやってみよう!という姿勢そのものは。

しかし、それなら趣味でも良い。何か出来たら出せば良い。

 

音楽を自由に生み出す事が自分にとって必要で、演奏がおしゃべりなら、音楽で食って行かねばならない状況は時に辛くなる。

その2点については今は納得がいき、バランスが取れるようになった。

今音楽を作っても、この時期のように作るだろう。それはローザの初期と実は姿勢としては全く同じなのだ。

僕はこういった自由がないと音楽にかかわる事が楽しくない。形を作ることは重要だが、僕にはその過程が同様に重要だ。

「何をやっても良いが、これをやる。」それが可能な状態に僕は居たい。わがままだが。

僕にとって音楽に関わるとはそういう事なのだ。僕がそうなので、人にも強制と言う事が出来ない。

ワンマンになりきれぬゆえんである。成功もしないかもしれない。

ティム・バートンの映画「エド・ウッド」の中でオーソン・ウェルズが出資者がうるさく口を出すとへこむエド・ウッドにこう言う。

「戦うんだエド。他人の映画を作ってどうする。」

エド・ウッドは戦い「自分の映画」を作り、「史上最低の映画監督」と呼ばれ、不遇のうちに酒に溺れて死ぬ。

しかしエドには多くのヘンテコな友人が居た。

いい話じゃないですか。僕は良い話だと思うな。現実を生きることの多くの側面をこの映画は描いている。

僕はエドではないので、バランスを取っていく事を選択したが。同じく現実は生きている。

 

僕はこの時点まで中学で何故かドラムに目覚めて以来ほぼ勢いだけでやって来ていた。

売れなかった事でイキナリ現実は視界に飛び込んできた。30一歩手前という年齢もあったかもしれない。

ここで現実を見ない人も居る。だが僕は見てしまった。

この時の感覚はどんとを見て自分がプロになるのが見えてしまった時の感覚に実は似ている。

僕が現実を見たのではなく、現実が来た。と言った方が難解だが近い。

現実が見えてこなければ「スターリン」で突っ走れたろう。それならそれでその後起こり得た事も想像は出来る。

が、そうなってしまい、僕はへこんだ。

 

この年か、明くる年か、もう車でツアーをするようになっていたが、ある時ローディーのマッちゃんが、

「札幌で行きましょうよ。」と言う。「え?」「僕の働いてる店の店長の兄貴が札幌で店やってて入浴料サービスするって

言ってるんですよ。」「え?な、なんの?」「中でお姉さんにだけ上げてくれればいいですから。」「うそ。」

マッチャンは普段吉原のソープで運転手していて、と、そういう話なのだが、僕は風俗はそれまで縁がなかった。

山盛とニッシーもなかったみたい。

あ、やめよかなこの話・・・。演奏もそこそこに・・・。そそくさと銀行行って・・・。

もう舞い上がっちゃって全員へべれけで・・・。品位落ちるなあ・・・。立ちゃしない・・・。

やめよかなあ、「えらいおっきな人でしたよ。」「あっお客さん危ないですよ!」

「ああそうなんだあ、××ちゃん身長2メートルあるからねえ。」やめましょう。この話は、ね。

マッチャンは若い頃、地元では最大派閥の暴走族を若い頃は率いたらしく、当時でも電話1本でウン万人集まると豪語していた。

ある意味僕は足元にも近づけないお方なのだが、見た目はやせっぽちでおとなしかった。安全靴だったけど、仲良かった。

その後、ソニーの新人開発でこれまた某県の族の頭だったお若いお方と仲良くなった。

だって話面白いんだもん。凄すぎて。

 

1989年で昭和も終わった。

 

 

 

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