人のケツ見て24年
中学の頃。笑え笑え!ワッハッハ。田舎の事とて丸坊主。
隣が姉。あじ食ってんじゃねーよ!!
その1 人のケツ見る以前
僕が京都で生まれたのは昭和35年。
小学校6年生とか音楽に興味を持ち出す頃は岡山県の津山市に住んでいた。
父はそれ以前は京都市交響楽団でファゴットを吹いていて、この頃は津山市にあった「作陽音楽大学」の助教授だった。
京都生まれなのは僕だけだ。父、母、姉は東京生まれ。母に至っては下町っ子だ。
姉は僕より三つ上で当時の御多聞にもれずいわゆるミーハーいわゆるロック少女、いわゆる「ファイヤー!」だった訳で、
まビートルズからツェッペリン、ストーンズと一通り通過なさっており、当時日本で最も流行ったバンドのひとつ、
エマーソン・レイク&パーマーも愛するバンドのひとつであらせられた。(グレッグ・レイクが好きでね・・・。)
狭い家の事、僕も当然耳にすることになる。
そのアルバムのなかに「展覧会の絵」というムソルグスキーの組曲をなんとオルガントリオでやってしまったライブ盤が有り、
その中に「ブルースバリエーション」という曲が入っている。
その曲のドライブ感に何故か僕はやられてしまったのだ。(なぜかいきなりシャッフルの曲。)
もう「なんていうかこのー」という岡本太郎状態になってしまった。
悪い事に当時の岡山県の津山の家に中学のブラスバンドでスネアドラムを担当していた姉の楽器がころがっていた。
三原家の悪夢はこうして始まった。
それまでどちらかというと暗い小児喘息持ちの息子がいきなり2階の部屋で毎日スネアを叩きまくり始めた。
ヘッドホンで爆音でエマーソン・レイク&パーマー聴きながら、スネアひとつでカール・パーマーのつもりなのだ。
リムショットも思いっきりやっていたはずだ。
不幸なことに田舎の新興住宅地の一軒家だったことと、オヤジがミュージシャンだったのもあってか、誰も怒らなかった。
(今でも不思議だ、そーとーうるさかったはずだが。俺なら殺す。)
実はオヤジもエマーソン・レイク&パーマーやイエス、キング・クリムゾンが結構好きで、
いやそれどころか、ピンク・フロイドの「おせっかい」に入っている大作「エコーズ」を一家揃って夜、居間を暗くして、
爆音で聞いていたという信じられないエピソードが残っている。(オフクロまでいたもんなあ。)
一家揃ってラリッていたというエピソードは残っていない。
そんなこんなで喘息持ちの暗い少年は全く持って「なぜか」ドラムに目覚めてしまう。
さらに不幸な事に、エマーソン・レイク&パーマーは実はそれまで現代音楽などの限られた分野で主に研究的に使われていただけ
だったシンセサイザーを始めてポピュラーミュージックに取り入れたバンドであり、
「ミニムーグ!」と聞いただけで勃起してしまうという程のシンセ好きにも少年はなってしまったのである。
その当時中学校の音楽の点は1か2だった。
小学校の頃、あまりの音楽の成績の悪さにオヤジがたまりかね、エレクトーンの前に座らされた事もあったのだが、
2日でオヤジはサジを投げた。
よせば良いのに姉がブラスバンドで8ビートの叩き方を覚えてきて、「シゲオあんたこんなん出来るか?」
と僕を呼び、「右手はチチチチ、左はンッタン、右足が・・・。」と教えた。これがまた2日程で出来てしまい、
少年おこずかい握りしめ練習スタジオへ。(楽器屋の奥の試奏室みたいな部屋。)
8ビートはすぐに叩け、ハイハットなんかもバシャバシャやっているといつの間にか「ンッチータッチー」になっているではないか。
ドーパミンがパーン!!ベータ・エンドルフィンがドロドロー!
ある種パターンを覚えてしまうとドラムという楽器は自動的なところがあり「こらおもろいわー」ってなもんである。
普通、ドラムを始めるのは「バンドやんない?」みたいなとこから始まる物だが、
僕の場合はとにかくまずドラム自体の魅力にとりつかれてしまった。音楽1なのに。
ただ、小さい頃から行進曲が好きでオヤジのレコードの中から行進曲を引っ張り出して聞きながら、
割り箸もって指揮者のまねごとをやっていた。
「ブルース・バリエーション」もスネアのロールが多用されている。そんな関係はあるかもしれない。
僕はドラムの「音自体」が大好きで、良いチューニングのスネアドラムの真中を軽く「たっ」と叩いた時の音色ははっきり言って
それだけでとべる。
軽くピン先で叩いたシンバルの音も同じ。だからドラムチューナーで呼んでもらっても凄く楽しい。
話しを戻そう。
そうやって、体中のアナというアナからアドレナリンを噴出しながら帰って来た少年の頭の中にはもうこの言葉しかない。
「ドラムが欲しい。」
東京では高校は進学を考えるなら私立ということになるが、地方では公立高校が唯一進学校だったりする。おまけに公立は安い。
スネアばっか叩いている少年が成績が良いはずは無く、仕方なく親がこう言った、「公立に受かったら、ドラムを買ってやる。」
親の苦悩いかばかりであったろう・・・。「かもよ・・・。」が付いていた様な気もする。
いずれにせよ渋っていた塾とかに僕が通いだしたのは言うまでもない。
で受かってしまった。
買ってもらったドラムセットは忘れもしないパールの「バレンシア」という初心者モデル。
シンバルも付いて5万という今考えても安―いセットをオヤジは音楽大学のお得意様という事で、3万5千円位で買ったはずだ。
(にしても安いよなー)
良く買ってくれたものだ。だって買ったら最後、僕は当然毎日叩く訳よ。最低1時間は。
おまけのハイハットはすぐにそっくりかえり、シンバルもそっくりかえってチャイナシンバルになったが、
オヤジはその度に大学から古いシンバルなどを持ってきてくれた。
(あのね、自分の部屋とかでドラム組んで叩くとうるさいよー。出張してやってみたげてもいい、ご希望の方はメールください。
ま、あの、冗談ですけど。)
とにかくセットを手に入れ叩く訳だが、教則本には目もくれず、相変わらずヘッドホーンで爆音でレコード聞きながら
てっきとうに合わせてはその気になる日々。
最初の頃、良く合わせて叩いたのは、前出のプログレ系の物の他、デオダートというブラジル人キーボード奏者の
「ラプソディー・イン・ブルー」いわゆるイージーリスニングジャズのレコード。
ナニを隠そう三原、当時ロックとジャズの区別知らなかったのだ、ロックにアメリカンとブリティッシュの違いが有ると知ったのは、
学生になってからだった。だって今に比べると情報量ぜーんぜん無いんだもん。
レコードの音と姉の「ミュージックライフ」の写真位。あとは月に一度のNHKの「ヤングミュージックショー」。
僕が一番記憶に残っているのはロキシーミュージックの「激しい雨が降る」。カッコ良かった。
後にそのプロデューサーだった湊さんと1度仕事して、「あんたのおかげで・・・。」と首を絞めたという話は残っていない。
最初がプログレ好きだったもんで、ある程度複雑なリズム形式の物を探していたらイージーリスニングジャズだったというだけ。
軽快で気持ち良いし。
後でクレジットとか見てみたら、なんとビリー・コブハム、スタンリー・クラーク、ジョン・トロペイ。
結構すごいメンツだった。なーんも知らんかったけどね。
この頃までは、人のケツはまだ見ていない、ホントたった一人。将来の事もまだナーンも考えとらん。
ただ人間は飽きる動物だ。一人も飽きる。
高校でけっこういろんなクラブに出たり入ったりしていて、放送部にも居たし、物理部で天体写真なんかも撮っていた。
楽だろうと思って入ったバトミントン部はメチャきつく、2ヶ月で辞めた。
そうそう、ロッキング・オンでずーっと書いてた市川哲史という音楽ライターはこの放送部にいて、ローザの頃、
名古屋かどっかでインタビューしに来た時に偶然再会した。「あれ?」「え?」みたいな。
姉は僕の3歳上なので、俺が高校に入った年には自動的に卒業していて、進学を嫌がり、京都のレコード屋に就職していたが、
確か卒業まで映画部にいて、「へーこれが姉ちゃんの居た映画部かー。」とのぞきに行ったら、
なんとエレキギターをかき鳴らしている奴が居るではないか!
こうして始まる、「人のケツ見る日々」なのだが、そのお話しは次回。「ロクザンヌの日々」。
こんなんなっちゃいました。
右はバンジージャンプフェスティバルのドラムのじゅんぺい。
無断掲載等一応やめてね。